延岡観光協会

歴史・神話

宮野浦八十八ヶ所巡り

八十八番大師まで約12km、標高差約200mの宮野浦八十八ヶ所巡り 江戸時代後期、宮野浦地区で疫病や火災が頻繁に起こったことから、当時の交易で富を得た宮野浦の中野忠之丞の発願で四国霊場八十八ヶ所を勧請されました。文政 2 宮野浦八十八ヶ所巡り

野口雨情詩碑

「逢ひはせなんだか あの和田越えで 薩摩なまりの落人に」 この詩は、野口雨情が西南戦争最後の激戦の地である〝和田越の戦い” に思いを馳せて、延岡市中央通りの光勝寺を訪れた際に詠んだものです。 野口雨情とは 野口雨情は18 野口雨情詩碑

藤江 監物

水を引くために井堰づくりに奔走し、村のために尽くした偉人 今から270年以上もの昔、延岡藩は牧野氏の時代。出喜多村(いできたむら、現在の出北)は、米を作ろうにも土地が川より高かったため水を引くこともできず、「ヒバリの巣」 藤江 監物

熊野神社の歳頂火(せとき)

熊野神社とは 霊亀2(716)年、和歌山県の玉置(たまき)山から、僧・正覚が熊野権現の分霊(神鏡)をもって諸国を巡礼する中でこの地に来て、一夜を須佐の峰で野宿しました。朝旅立とうとするとご神体が重く、腰が立たなかったこと 熊野神社の歳頂火(せとき)

後藤勇吉

 初の日本一周飛行に成功した延岡出身の空の先駆者 後藤勇吉は明治29年11月12日、延岡市南町に生まれました。山産物商と醤油醸造業を営む家の4男3女の7人兄弟の4男で、極めて裕福な家庭でした。 子供の頃から機械に興味をも 後藤勇吉

若山牧水

 日本を代表する歌人「若山牧水」 坪谷村と若山家 牧水が生まれ育った坪谷(東郷町)の若山家は、牧水の祖父健海に始まります。健海は埼玉県所沢の農家に生まれ、13歳の時江戸に出て薬屋の丁稚奉公をしました。 その頃坪谷出身の水 若山牧水

城山の鐘まつり

 140年以上もの間、延岡市民に時を告げ続ける城山の鐘 現在、1日に6回(6時、8時、10時、12時、15時、17時)撞かれている城山の鐘。 この鐘は、明暦2(1656)年、時の領主、有馬康純が蓬莱山八幡宮(現今山八幡宮 城山の鐘まつり

梵鐘

延岡の名が登場する最古の資料 明暦2年(1656年)時の延岡藩主・有馬康純が今山八幡宮に寄進した鐘です。西南の役で焼かれた城山の大太鼓に代わり、明治11年に城山に移されました。以来、昭和32年に二代目に代わるまで時を告げ 梵鐘

御手洗水神社(みたらいすいじんじゃ)

木製の鳥居が立ち並ぶ神秘的な神社 木製の鳥居が並んでいる参道が特徴的で、厳かな雰囲気に包まれています。徳川家康のひ孫で、延岡藩主・有馬直純夫人である日向御前が、手を洗って清めた場所とされています。

行縢神社(むかばきじんじゃ)

特徴的な狛犬、御神木などのシンボルが多く点在する 社殿の前に鎮座した奇妙な顔形の狛犬や、樹齢300年の夫婦杉、軒下に施された見事な彫刻や象鼻など、象徴的なシンボルが多く存在する神社です。中でも「鉄鰐口」は県の有形文化財に 行縢神社(むかばきじんじゃ)

今山大師・延岡大師祭

日本一の弘法大師像、市中がにぎわう延岡大師祭 今山大師は、 延岡駅から歩いて約15分、今山大師寺の頂上にあります。1839年(天保10年)延岡の地で疾病が猛威を振るった際、延岡城下の大師信徒たちが高野山金剛峰寺(こんごう 今山大師・延岡大師祭

今山八幡・今山恵比須神社

延岡市 今山八幡・今山恵比寿神社

「今最も栄える山」の意味をもつ今山八幡宮、九州三大えびす祭りの1つ「今山十日えびす」 今山は、養老元年(717年)に延岡地方における最古の寺院が創建されたところといわれています。 750年に豊前国宇佐八幡宮を勧請したもの 今山八幡・今山恵比須神社

ニニギノミコト御陵墓参考地(北川陵墓参考地)

ニニギノミコト御陵墓参考値

天孫ニニギノミコトの終焉地として伝えられる神話スポット 天孫降臨の神話で語られる天孫ニニギノミコトの終焉地として伝えられ、可愛山陵(えのさんりょう)の麓にある塚は宮内庁からご陵墓参考地として認定されています。可愛岳の鉾岩 ニニギノミコト御陵墓参考地(北川陵墓参考地)

愛宕山の夜景

延岡市 愛宕山の夜景

「日本夜景遺産」・「日本百名月」に認定された神話スポット 延岡市の中心部にある標高251mの山で、頂上付近にある展望台からは市街地を360°一望することができ、「日本夜景遺産」に認定されています。 また、「日本百名月」に 愛宕山の夜景

神さん山

九州最後の秘境「大崩山」の麓に位置するパワースポット 高さ24mと15mの巨岩が支えあって岩屋を形成し、その隙間に約2mの真三角の岩が鎮座している神秘的な洞穴遺跡です。大迫力の景観とその神秘性から、パワースポットとして注 神さん山

西南の役 和田越決戦場

薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地 薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地です。西郷隆盛率いる薩摩軍約3千5百人は、山県有朋中将指揮する官軍約5万人に決戦を挑みますが、物量に勝る官軍の攻撃に耐えられず北川方面に敗走しました。その 西南の役 和田越決戦場

小倉處平(しょへい)加療の地

西南の役で活躍した宮崎の偉人 小倉處平(おぐら・しょへい)は日南市飫肥出身で、小村寿太郎(明治時代に外交官として活躍)を世界へと羽ばたかせた偉人です。 西南の役において、薩軍の将として飫肥隊を率いましたが、負傷したことに 小倉處平(しょへい)加療の地

西郷隆盛宿陣跡資料館

延岡市 西郷隆盛宿陣跡資料館

当時の軍議の模様を忠実に再現した空間が見どころ 「和田越の決戦」に大敗北を喫した西郷隆盛軍が、北川に逃れた際に立ち寄ったゆかりの家です。現在は、資料館として整備され、隆盛愛用の遺品や戦争資料が展示されています。

内藤家ゆかりの武具

武具写真 詳細 内藤家伝来 紺糸威胴丸具足 (延岡市指定有形文化財) 兜は二十間星兜で白熊(はくま)の毛(ヤクの尾の毛を付ける。頬当は鉄錆地の目の下頬で、顎下に「明珍/紀宗賢/行年七拾二歳/作之」の銘がある。 胴は黒漆塗 内藤家ゆかりの武具

内藤家ゆかりの能面・狂言面

延岡市の市制施行60周年(平成5年)に際し、旧延岡藩主、内藤家17代当主、故・内藤政道(ないとう まさみち)氏から、歴代藩主ゆかりの貴重な文化財とともに、能、狂言の面 72面が寄贈されました。 延岡市が、寄贈された能面の 内藤家ゆかりの能面・狂言面

延岡城・内藤記念博物館

延岡城「西の丸」跡に建てられた延岡市の歴史資料館 明治25(1892)年に旧延岡藩主・内藤家が建設した邸宅が、昭和14(1939)年に延岡市に寄贈され、内藤記念館として一般公開されました。邸宅は戦災で焼失したのですが、市 延岡城・内藤記念博物館

畳堤

川とともに生きた先人たちが、畳で水害から街を守った知恵のシンボル 延岡市内には4つの大きな川が流れ込み、「水郷のべおか」と称されるほど水が豊かな土地で、水と共に暮らしてきました。 しかし、水の恩恵を受ける反面、水害にも悩 畳堤

島浦町(島野浦島)

「島の宝100景」に選出された、食・アクティビティが充実する島 『島野浦島/しまのうらしま』(延岡市島浦町)は、延岡市の中心部から北東へ約12km、日豊海岸国定公園の一部であり、美しいリアス式海岸に囲まれた周囲15.5k 島浦町(島野浦島)

メキシコ女王の黄金伝説(十字架)

島野浦島にまつわる歴史ロマン!メキシコ女王の伝説が語られる『沖の小島』 江戸時代の終わり頃、一隻のカツオ漁船が島への帰港中、波間に漂う大きな木箱のようなものを発見。船中の漁師12名がその木箱を引き上げ、手斧で開けてみると メキシコ女王の黄金伝説(十字架)

本東寺の慧日梅(えにちばい)

延岡 本東寺の慧日梅

「みやざき巨樹百選」に選定された樹齢約240年以上の古木を中心に可憐な梅が咲き誇る 本東寺境内では、2月上旬になると樹齢240年を超す巨木をはじめ、白梅50本、紅梅5本が咲き誇ります。山号より慧日梅(えにちばい)と言われ 本東寺の慧日梅(えにちばい)

延岡城跡・城山公園の桜

城山公園の桜

延岡城跡・城山公園を包み込むように咲き誇る300本の可憐な桜  礎石をはずすと崩れ落ちて千人の敵を倒すことができるといわれる高さ19mの「千人殺しの石垣」を中心に、園内には300本の桜が植えられ、春になると延岡城跡・城山 延岡城跡・城山公園の桜

ヤブツバキ

108種・3,300本を誇る日本三大ヤブツバキ群 延岡城跡公園の「ヤブツバキ」は、千葉県 いすみ市の伊能滝、島根県 松江市の松江城址とともに、日本三大ヤブツバキ群として知られています。 現在、108種、3,300本ものヤ ヤブツバキ

延岡城跡・城山公園

延岡城の誕生 奈良時代・平安時代の延岡は、この地域の豪族である、”土持家”により支配されていましたが、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた1590年(天正18年)秀吉の命を受けた「高橋元種」公が延岡の地に赴任し、延岡城は高橋元 延岡城跡・城山公園